存在そのものへ!

言語とは、音声が奏でる記号体系にほかならなくて、その指示対象を明確化すること、なにがしかの意味をもってはじめて機能する、つまり問いとそのこたえ、これらが牽連性をもったとき、会話がなりたつ、一般的あるいは表層的には。

言語は存在の家だっていったのはハイデガーだ。もちろん、ハイデガーは惰性で語られることばなんか問題にしちゃいない、なにかそこに現存在を投企するような、実存にねざした瑞々しいひびきがあったときに、言語は存在の家となる、そういうことだ。

でも、言語って「存在」を水も漏らさず記述できるようなものじゃないんだ。ハイデガーがいう言語って、不特定多数のうちのひとりが、特定の誰かとして飛躍するその瞬間に、熟業体としてかがやくものだって、彼らしい陰鬱な表情で教えてくれるんだ。そのときにかがやくのは「存在」じゃない、言語をあやつる「存在者」。

硬くきめられたお約束なんていらない、目の前の、たとえば、月、月そのものになった存在者の言語以外に本質はない。月のきらめきそのもの以外の概念的理解なんて本質じゃない。

そんな存在の深みを欠いた表層的な空語はコミュニケーションなのかな、他者を理解しましょう、自分を理解してもらいましょう、それはニュートラルだけど、もっと深いところで自分の存在を感じていないと、結局のところ、空語が世に飛びかうのだ、と自戒したい。

ひとたび、ことばが結晶化されると、その指示内容が持つ動的なちからは隠蔽されてしまう。その決定的な一瞬にことばは本源的な存在を露にするんだ。