意識の戯れ(1)

ひとの意識が面妖なものであるのは、その深層意識からふとした心象(イマージュ)の表出が起こったりすることに、その一因がありそうだ。少なくとも、精神分析学派の祖、とのちに呼ばれるフロイトはそう考えた。

でも、ちょっと考えればわかるように、表層意識も起伏に富んでいる。それが、平常だと思われている表層意識であっても、経験的事物への即物的な起伏には、間違いなく富んでいる。他方、深層意識は、現実から遊離した具体性を欠いた表象として立ち現れる。

いわば、表層意識が一次的知覚であるのに対し、深層意識が表象するものは、具体的事物xのn次的把握として、存在するということと考えてよい。眼前のディスプレイにも、今も深層意識はn次的、抽象的把握としての心象を形成している。

人間の意識は、イマージュ形成的だ、想像投企的、といってもよい。現象学的にいえば、ある任意の単語、たとえばネコ、といわれて、ネコの形状をイメージしてはいけないと禁止されても、表出されるものは表出される。

外的事物をネコと認識するのは、ネコに関する内生言語が抽象化されたカタチでなくてはならない。禅でいう「鏡を打破し去れ」というのは、簡単なことではないのだ。その種の深層意識的な表出が果てしないとき、そこに神秘主義が現前すると解することもできるだろうけれど、これは「何か」の本質ではないかと考える人々がいても不思議ではないのだ。